そして、二人の謹慎が始まったのだ。無論、嵐は二日以上寝込んでいた。そして、瘴気
が大分取れ動けるようになり月夜と顔をあわせたとき不機嫌そうに顔をそむけていた。よ
っぽど理を犯させてしまった事が嫌だったらしい。それを察して夕香は月夜に向かって肩
を竦めて見せた。月夜もしょうがないよなというように首を傾げて見せてつかつかと背を
向けて歩いていく嵐を見ていた。
「あそこまで怒んなくても良いじゃないかよ」
 見えなくなった背中に向かって月夜は呟いた。そして溜め息をつくと昌也と共に薬草の
補充を行った。昌也はその後新薬の開発に勤しんでいた。月夜はやることがないので夕香
を引き連れて、散歩に出かけた。謹慎とは言えども見張っている訳ではない。つまり、こ
の世界から出なかったらどこに居ても良いという事だ。
「ねえ」
「なんだ?」
 異界の風に吹かれ月夜の黒髪がゆれ夕香の胡桃色の髪が靡く。夕香は靡く自分の髪を押
さえてため息混じりにたずねた。
「水神の杜って、どうなの?」
 無論、答えが返ってくることは期待していない。ただ、ふと思っただけだ。月夜はしば
らく考えるとため息混じりに言葉を風に乗せた。
「……そうだな。薄暗い杜だ。辺りには瘴気が漂って中心部だけが神聖だった。真ん中に
滾々と湧き出る清水があって池が出来ている。その池の中心に小さな祠があった。不思議
なところだった。注連縄もないのに池の一帯だけが神聖な空気に包まれているのだから」
 その口ぶりからしていった事があるのだろう。だが、その瞳にあるのは悲しみに似た光
で、声をかけることを躊躇わせる雰囲気が月夜の周りを取り巻いていた。
「一度、親父と行った事がある。十三の時だ。親父が死ぬ一つ前の任務だったっけな」
 その神秘的な池に見惚れた。あんなに恐ろしい杜が近くに取り巻いているのにそこだけ
は神秘的としか言いようのない静けさで謐謐としていた。ただ、そこにある音は滾々と湧
き出る清水が流れる音だけで、心が安らいだのを感じた。
 しばらく見惚れ父を見ると父は物憂げな顔をしてその泉を見つめていた。しばらくして
一礼して連れられたとき、気配を感じたのだ。父に告げるとそれは水神だと穏やかに答え
てくれた。
「もうお父さんは?」
「ああ。十三の時に。多分、天狐の里の近くで」
 あの時、あの人が助けてくれなければ俺はここにいなかったけど。と、声は出さずに口
早に月夜の唇が動いたのを見た。
 それに気付かなかった振りをして夕香は目を伏せた。
「そうなんだ。……だから、兄さんを?」
「ああ。でも、お前が気にすることではない」
 表情を曇らせた夕香の頭に手を置いて月夜は静かに言った。夕香はその表情を伺うのを
避けた。恐かった。自分の兄のせいで父を失ったあの人がここに居てあの兄を恨んでいる
人がここにいるのだ。その顔はさぞかし憎しみに満ちているだろう。そして、自分は、そ
の兄の――。
「夕香?」
 低い声にそろそろと顔を上げた。手のぬくもりはするすると髪の上を滑って心地良いあ
たたかさを伝える。伺えた月夜の表情は奇妙に凪いでいた。
「お前が気にすることではない」
「でも」
 心の中で直に感じている。月夜が兄をどれほど恨んでいることを。今だって。
「確かに、俺は、お前の兄、白空を恨んでいる。それは今でも変わらない」
 低く落ち着いて、その上優しさや温もりを感じさせる不思議な声音で月夜は続ける。
「でも俺は、お前と白空は違う人だって分かっているから、お前のことを恨んだりしない。
それだけは絶対に」
 眼差しが直と交わる。月夜の眼差しは真っ直ぐで何も嘘をついていない静かな澄んだ目
でそれでいて強い光を宿していた。夕香はそれを見て泣きそうに顔をゆがめながら俯いて
コクンと頷いた。
 そして月夜はうつむいたまま、嗚咽を漏らさまいと肩を小刻みに震わせている夕香をそ
っと引き寄せた。そして少し背の小さい夕香を抱き締めた。細い肩だと、月夜は思った。
そんな肩を震わせて夕香は泣いている。夕香もそれに甘えて静かに泣き続いていた。月夜
のその優しさがなぜか悲しかった。そんなひどい事をしたものの親族なのに恨まない月夜
の心が。
 いっそ、恨み言を吐いてくれれば心は軽かった。そうすれば楽に兄を殺せる。楽に長老
の命を果たせる。だが、月夜は――。
「泣くなよ。そんな事で」
 月夜は夕香の体を離し間近にある夕香の顔に手を這わせ涙をその細い指で拭ってやった。
月夜の内に潜めているその優しさが今、夕香に注がれていた。
 ――彼は分かっていた。
 夕香が兄、白空のことで苦悩していることを。そして、自分は兄を殺せないとわかって
いながら殺さないといけないと自身を苦しめている事を。そう言う風に一人で悩んでほし
くなかった。
「な?」
 夕香は涙を眦に溜めながら気丈に頷いた。そしてそれを手の甲で拭って恥ずかしそうに
唇を綻ばせた。
「ゴメン」
 らしくない所見せたねと呟いて空を仰いだ。風が吹き過ぎる。夕香の胡桃色の髪が宙に
舞う。その姿を月夜は目を細めて見ていた。
「お父さんのお墓ね、杜にあるよ。今度、案内する」
 夕香の言葉に頷いて風が吹き荒れる景色を視界に入れた。秋になれば黄金色の野原にな
るであろう薄野原だった。そして去年の薄が残りそれに包まれている夕香の姿にあの日の
赤い着物を来た少女を幻視した。
「月夜?」
 ボーとしている月夜に夕香は小首をかしげて呼びかけた。月夜は二、三度瞬きをして穏
やかに微笑んだ。
「帰ろうか」
 その声がいつもより遥かに穏やかなのを感じて夕香はしっかりと頷いた。そして月夜は
夕香と共に分家の家に帰っていった。
「見つけた」
 それを、一人の男が見ていた。浅葱色の狩衣と狩袴をまとった男は月夜を見て口の端を
引き上げるような笑みを浮かべた。
「見つけた。彼の人」
 その男はどこからともなく消えた。一瞬、邪気のような物を発して。



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